曽根城

別名-  付近住所 岐阜県大垣市曽根1-772-1 現在 華渓寺
2007/9/15 碑・案内板アリ 日本城郭大系


稲葉氏→
西尾光教
 曽根城は揖斐川の支流平野井川の湾曲部を利用して築かれた平城です。
 創建は室町時代末期に稲葉通富によってなされたと言われ、以後稲葉氏の勢力拡大の拠点になりました。中でも稲葉良通(一鉄)は、西美濃三人衆にも数えられるほどの優れた武将で、織田信長・豊臣秀吉に仕えて数々の戦功をたてました。
 天正16年(1588)西尾光教が稲葉氏に替わって曽根城主になりましたが、関ヶ原合戦後揖斐城に移り曽根城は廃城となりました。
 その後、城跡は開墾され田畑となっていましたが、一鉄が生母の菩提を弔うために建てた華渓寺が、享保19年(1734)に現在の場所(本丸跡)に移築されました。

 発掘調査(平成元年4月)の結果、本丸に伴うと思われる石垣と石敷遺構が発見されました。石垣は、赤坂・金生山から産する石灰岩の自然石を並べ、石敷遺構とあわせて郭を形成しています。さらにその内側にも主郭を囲んだ土塁と石垣が推測されています。
 石垣の年代は、出土品などから稲葉一鉄時代(1525〜1579)と推定でき、岐阜・千畳敷織田信長居館跡に次ぐものとして注目される重要な城館跡で、将来にわたり大切に保存するため埋め戻し、公園整備として地上復元を行いました。

 この地は天正のはじめ、春日局の父、斎藤利三が城主稲葉一鉄の重臣として住んだところである。
 春日局は稲葉一鉄の姪、お安と斎藤利三との間に生れた子であり、のちに一鉄の子、重通の養女となって稲葉正成に嫁した。
 曽根城の創築年代は不明だが西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄が永禄10年(1567)織田信長に仕え、5万石を領したという。
 その後、この城は一鉄の子、貞通と孫の典通を経て、天正16年(1588)から西尾光教が在城した。
光教は関ヶ原合戦(1600)に西軍の守備する大垣城を攻略する等の戦功をたて戦後揖斐城に移り、曽根城は廃城になった。
 一鉄の母の菩提寺である華渓寺も享保19年(1734)に本丸跡に移転した。
 なお、華渓寺所蔵の曽根古城跡図の中央部に「斎藤内蔵佐」と利三の屋敷が記されているから春日局は、ここで生れたのではないかといわれている。

              斎藤利三屋敷跡